「アロハで猟師、はじめました」を読んでみた

先日、書店の店頭で、こんな本見つけて思わず即買いしました。
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正直、タイトルからはあまり「良い印象」は受けなかったんです、
「アロハで猟師って・・・。」
あの厳寒期の猟場でアロハって、人目を引くためのタイトルとしても程があると。

でもまあ、猟師エッセイ自体が貴重な情報ですからね、
で、読み始めていやあ!読みやすい!
いろいろ引っかかるところがありながらも、猟師になった人が初めて文章書いたエッセイ本ではなく、元々文章書く側の仕事をしていた人が、たまたま猟師になったエッセイ本。
いわゆる、文章力のある人が書いた猟師エッセイ、さすがに読みやすい。

・・・けど!

正直、読後感はいろいろありますが、まずは本の紹介というか、筆者がどのような経緯で猟師になったのかを紹介します。


作者は長年新聞記者で、バリバリ都会のサラリーマン。夏も冬もアロハ着て粋がっている性格が、本のタイトルの証。
ある日「朝だけ農夫」を思いつく。朝の1時間だけ農業をやり、自分の食べるだけのコメを生産する企画で、田舎に移住。
移住した農地で農作物の獣害被害が酷いことを知り、猟師の道を決意。

しかし猟師の縄張り意識の強さにイノシシ猟を諦め、カモ猟を決意したが、全く成果出ず。
ようやくブラ師という師匠を見つけて、ようやく猟師らしいことがスタート。


・・・。
うーーーん。

元々やりたいことは「農夫」じゃあなかったのか?
だいたい、朝1時間で田んぼ農家が回る計算ができた上での移住か?
農業すら手に余る状態で、なぜ銃所持に動ける?
それも害獣被害と向き合うなら、まずは「わな猟」じゃね?!

サラリーマンハンターという点ではこの筆者と同じ立場ですが、サラリーマンだからこその悩みどころがまるで違います。
狩猟に興味を持った当時の心境を書いた私の記事がこれです。

普通に考えれば、新聞部数を増やすための企画として、
「サラリーマン農家・サラリーマンハンター」という、新企画を「仕事」として立ち上げた感が否めないんです。

・・・。
うーーーん。


そして、この本には随所にイデオロギー的表現がちりばめられています。
そのほとんどに、私は同意も納得もできません。

ここまで、作家の主張に「?!」って思った本も最近なかったので、今一度本の帯の部分を見て納得。
「ああ旭日旗が社章の、あの新聞記者か・・・。」
いわゆる、マッカッカなアサヒです。




まあ、「戦争」「原発」「ベジタリアン」とかについての、イデオロギー的な話というのは、どうやっても決着つかないし、狩猟ブログからするとかなりの脱線だと思われるので、改めて私からの意見も述べるつもりもありません。
どうぞ皆さんが実際に本を読んでみて、この筆者の文章から皆さんが各々考えていただければよいと思います。

一方で猟師の部分は違うと・・・思います。違うと信じたいです。
何がというと、筆者と私の「猟師感」です。

例えば私の話です。私が思想的に左右どちらかはこの際述べません。
でも、思想的に「左」の猟師も「右」の猟師も、特に空気銃限定のカモ撃ち猟師なら、私の今までの活動記録に、まあある程度は賛同していただいているものだと思ってます。
もちろん、足りない部分は先輩方からのコメント欄からのご指摘で、それらの情報を糧にして、私自身も成長しているつもりでいます。

いわゆる思想がどうであれ、猟師である以上、獲物に対する猟師的な気持ちは千差万別とはいえ、根本的な根っこの部分は、全国の猟師は、まあ似たようなものではないのか?ってのが、私の大雑把な意見です。


閑話休題、前フリでした。
すいません、今回の記事長くなります。

なんか、この本の中で一番違和感キツイ場面は、わな猟で「小鹿」が取れたときです。
筆者は小鹿殺しを強烈な葛藤の後に行うのですが・・・。

本文を一部ずつ抜粋します。

「まあね。その通りだろう。小鹿はとるな?できればそうしたいところだ。鉄砲撃ちなら撃たない。」
「市場でマグロの解体ショーを見て、歓声とともにカメラを向けている人たちがいる。解体しているようすを喜んで撮影し、インスタグラムにあげている。ところで、鹿や猪の解体ショーがあったとしたら、新聞沙汰になるのではないか?」
「奈良公園で鹿にせんべいをやっている観光客が、鹿を知っているとは、私は思わない。小鹿のつぶらな瞳のかわいらしさ。無辜でいたいけなしぐさは、わたしたちがよく知っている。近くで、手で触って、殺めたのだから。」

うーーん・・・言いたいことはいろいろあるんですが、できる限り冷静に言葉を選んで、突っ込みたいと思います。


この筆者は、元々、農作物の獣害被害のために猟師になったはず。
それなのに、つぶらな瞳のバンビ・・・ってのは、さすがに猟師的ではない、あまりにも素人的な目線です。

言っちゃあ悪いが、バンビでも半年もたつと立派な成獣となり、その成長は農家にとって十分な脅威です。その驚異の芽を早めに潰すことも、農業のためにハンターになった人間なら、職務なんじゃないでしょうか?
なのに、
「鉄砲撃ちなら小鹿は撃たない?!」
何言ってんだろう・・・・さっぱりわからない。

例えばライオンの狩猟で言うと、シマウマの群れを狙ったとして、狙いは足の遅い子供に決まってます。
弱い奴が狩られる、それが文字通り弱肉強食の世界。残酷だけど、それが「もののけ」の日常。
猟師ってのは、強力な武器を持ちながら、それでもそんな「もののけ」の弱肉強食の世界に踏み込む行為ではないのか?!と私は思うわけです。

まあ多少乱暴に表現すると、
「筆者自身が可愛いと判断できるような獲物は撃たないし、世の中の鉄砲撃ちは、筆者と同意見で通常なら撃たない。猟師とはそういうものである。」
と表現しているように思えてなりません。
私の読みとり方が、筆者からすると誤読くらい間違っているのかもしれません。それでも、筆者は文筆業を生業とする人ですから、誤読ミスは私ではなく筆者の責任と考えます。


それに「小鹿を殺めたから、観光客よりもバンビの愛らしさを知っている」というロジックが全く分からない。
殺される間際の「無辜でいたいけなしぐさ」ってのは、単純にバンビがおびえていただけじゃないの?

私が思うに逆ですよ、奈良公園や厳島神社で小鹿と触れ合う観光客、本当に安心しきっている小鹿と触れ合う観光客のほうが、本当にかわいいバンビを知っているんじゃないかと思います。

私自身はわな猟の手伝いをしていて、バンビを殺めた経験はありませんが、ウリ坊はあります。
正直、初めて静寂な猟場に響き渡るウリ坊の悲鳴を聞いたときは、さすがに胸に響くせつなさがありました。
でも、それよりも猟師としてできる限り早く、この恐怖感から楽にしてあげようっていう使命感のほうが強かったです。

なぜそんな残酷な行為が平然とできるのか?!
それは「有害鳥獣を間引く」という大義名分があるからです!

まあ当たり前ですが、私のウリ坊殺しの経験から、「無辜」とか「いたいけ」とか「愛らしさ」という単語を、経験として得ることは一切ありませんでした。
何か私、間違ったこと書いていますかね?

ちょっと話を飛躍させますが、もしこの筆者が「無類の子供好き」だと仮定しますね。
そうすると、この筆者はこれまでにどれほどの数の「無辜でいたいけなしぐさ」の子供たちを見てきたか・・・って話につながってもおかしくないわけです。
・・・考えようによってはかなりのホラーです(笑)




次にカモ猟の話に焦点を当てますね。
この筆者は、師匠ともにバンバンとカモは獲っている。山間部にあるため池探しのテクニックも含めて、私なんか足元にも及ばないくらいの「カモ猟」において、強烈な経験者です。
もう一度言いますが、私なんか比べ物にならないくらいの経験を、筆者は師匠に学びながらその後自力で深めています。

しかしですね、そのカモ猟における「カモ殺し」の罪悪感の文章が、この本にまるでありません。
四つ足の子殺しに強烈なためらいを感じて、それを結構な文章量で表現している筆者ですが、カモ殺しについてはためらいがあるようには思えません。
やっぱりわからない。

私は水場に行けばカモがいるって、見つけやすさのために、非力なエースハンター片手に今はメインで「カモ猟」してます。
しかし、自分の中でいつも葛藤があります、それは、
「カモってなんか農家とかに悪さしてるのか・・・。」
ってことです。いわゆる一方的に殺して良い対象なのかという話です。

この辺りも筆者と私の感覚の違いです。
まあ下手すると、カモ殺しの感覚は、全国の猟師からすると、私のほうがダントツでナイーブな話に感じられるかも知れません。
まあそれでもいいんです。私はそれを理解して書いているつもりですから。
私はナイーブな猟師です、自覚あります

つまりですね、私はこの筆者と逆のナイーブさで、
「ウリ坊殺しは罪悪感なかったけど、カモ殺しは今でも罪悪感との戦いです!」
これが言いたかったんです。

ようやく3年目にして猟果が出始めましたけど、それでも私の中にはいまだに、カモ猟の正当性が見えないままで猟を続けています。
もちろん、それでもカモが獲れたら、強烈な達成感と喜びはありますよ。
いわゆる私は「猟師」ですから。
でもいまだに私はカモ猟は悩むんです。
逆に言うと、猟師になった私がこの感覚を持ち続けることは、ある意味、非常に大事な感性なのではないかとも考えてます。


まあ単純に、カモ撃ちハンターの読み物としては、私のブログの500倍くらい価値のある情報が詰まっていると思います。
まあ単純に、この筆者が強烈な師匠と出会えてからの経験談は、本当に一読の価値はあります。

それでも、なんだろうな・・・この違和感。
まあ、私の持った違和感を体験してみたい猟師の方には、非常にお勧めの本です。


そう言えば、本の紹介で、ここまで私の個人的意見を書きなぐったことは初めてです!
そう言う意味では、猟師にとって意見交換のきっかけとしては貴重な存在の本かもしれません。

何て言ったらいいんだろうなあ・・・本を読まれた方、必ず返信しますので、コメント欄から感想のほうを是非ともお願いします。
なんというか、猟師で言うと先輩や後輩、思想で言うと右や左、そんないろんな考えのお持ちの方と、個人的には、このなんというかまとわりつくような読後感の原因が何か?を、突きとめたい感じです。

コメントお待ちしております。



この記事へのコメント

  • 黒猫

    子鹿は撃たないって、意味分かりませんね。鹿もイノシシも、子供の方が美味しいのに!

    私も当初、有害系----カラスやカワウの様に農業被害や漁業被害をもたらす存在、イノシシや鹿のように林業被害や農業被害をもたらす存在を殺めるのに、特に罪悪感は感じていませんでした。

    でも最近は違いますね。鳥も四つ足も罪悪感はあります。特に子鹿は死を予感して足がガクガクブルブルwww。恐怖におびえた目を見ると、もう引き金を退く指が、、、ガスン!

    何を言っても命を奪って良い理由にはなりませんので、業を背負ったまま引き金を引き続けます。目的は獣害や鳥害の軽減でも、美味しく食べるためでも、食べたいヒトにあげるためでも、何でもOK!あとで大人しく十六小地獄に落ちることにします。
    2020年07月10日 20:27
  • morimori

    私は食材求めて猟師になった部分が大きいです、そのためになぜ生き物殺しの道を選んだのか?と問われると、それは、
    「自分で食べたいための肉を、自分で獲ってみたかった」としか言いようがないです。
    ただ、普段は屠畜業の方しか行っていない行為を、自分の手でやってみると、食に対する根本的なことから問いただされる思いがしました。自給率が40%しかない日本において、コンビニ弁当の廃棄問題など、本当に論外です。
    私に向かって「なんで、生き物殺しの道を選んだのですか?」って問う人がいるなら、逆質問します。
    「この便利な日本の状況をあなたは変えたくないと思うのであれば、私よりもあなたのほうが、廃棄されるだけの生き物殺しが、桁が違うほど多いことについて、どう思われますか?」
    コンビニはね、レジ袋をやめるべきではなく、廃棄されるほどの弁当やおにぎり等の販売をやめるべきだと思います。まあ多少暴論ですがね。
    2020年07月10日 21:59