現在私は猟師で、生き物殺しに関わってます。
そのため、生き物の現実的な死という現象を、一般人よりも多く経験していると思います。
で、いつも獲物が取れた時は思うんですよね、弱肉強食と死生観。
で、そういえば、私は若い時から死生観については追い求めてきたことを思い出しました。
以前アップした、この記事の最後の最後にも触れてることです。
今回はガッツリと死生観についての私見を、良書を交えながら語っていきたいと思います。
さてまずは、なぜ死生観について詳しくなったのかというところから話を始めたいと思います。
若い時には「有限な時間の中で、できる限り楽しく過ごせる時間をどう過ごすか?!」ってのをテーマにしながら、私は生きてきました。
長い間、音楽が趣味だったので、楽しめる時間というのはプライベート時間でした。
一方で、仕事時間いわゆるオフィシャル時間は、単純に金銭を生むための時間でしかなかったのですが、それはそれで社会的には自分のアイデンティティであり、1週間のうちの5日間はその時間帯に当てなければならない状況でした。
つまり私は、5日間のオフィシャルはオフィシャルなりのこだわりと、2日間のプライベートは本当の自分を構築できる大切な時間であるというこだわりがありました。
まあ当たり前かもしれませんけど、焦点の当て方が生きる方向の「生」にスポットを当て続ける人生でした。
いわゆる生命力を使いながら、何かを表現したいというアウトプットと、人が表現した何かから何かを得たいというインプットのバランスを保つことで、自分の充実感、いわゆる生きている実感というのを得ていました。
具体的には、バンド活動や作曲活動というアウトプット活動がアイデンティティであり、私自身の生き様でした。
で、実はこれが一般人とは真逆のオフの過ごし方で、一般人はグルメとか旅行とか、最近ならサウナとか、いわゆる癒しとか経験とか情報とかを得るのが、普通のオフの過ごし方ですね。
つまり一般人は、オフィシャルでアウトプットして、プライベートタイムでインプットして、それでバランスとっていると思うんです。
しかし私はオフィシャルもプライベートもずっとアウトプットしっぱなしの過ごし方を続けています。例えばこのブログもプライベートにおけるアウトプット作業です。
そうなるとですね、一般人以上にインプットの時間が大切になってくるわけです。
そのために、興味を少しでも感じたなら、美術館とかウインドウショッピングとかイベントとか読書とかのインプットに触れる時間は、今でもかなり大切にしています。
さて、話を戻します。20代の時はインプットもアウトプットも「生」に焦点を当て続けた人生でした。
それが、30歳を過ぎたころから変化していきまして、最終的には寺社仏閣巡りをするまでいきました。
その理由は、生だけを考えると「なぜ生きていかなければならないのか?」って理由が見えなくなる瞬間が多くなってきたんですね。
例えばインプットで言うと、美術館で絵画巡りをしたときに、死のテーマの作品を見た時に、「生」ばかりを考え続けてきた自分にとって、理解しづらい作品に思えてしまい、自分という経験の引き出しが狭いんじゃないか?と感じてしまうことが増えてきたのです。
いわゆる、生と死・光と闇・表社会と裏社会、そういう知識を自分の引き出しに入れておかなければ、今後の自分の人生として、人としての器が小さくまとまってしまうと思えたのです。
それで、若い時に追求してきた「生」とは真逆の「死」というものをちゃんと学べば、改めて生と死の両面を知ることができると思ったわけです。
で、その時期に宗教本を読みあさりました。
その理由は、特定の宗教に感化されたいからではなく、色々な宗教の「死生観」とその根拠が知りたくなったからです。
まあ実際に、「死んだらどうなるのか?」ってことを明確に答えているのが、正直宗教しか学問として見つからなかったから、宗教から「死」を学びました。でも特定宗教だけで学ぶと、思想が固定してしまう危険性があったので、できる限り得られるだけの宗教の根源が書かれた本を、次々読みました。
はい!宗教を学んだというよりは、宗教学を薄く広く学んだ感じです。
寺社仏閣巡りは、その死生観に支えられた思想を元に、どんな建物を作り、どんな仏像を作りってきたのかが、単純に実際に見たい!!って気持ちが強くなりすぎたからです。
この時期が、宗教学にハマったピークでした。
で、まあ宗教学として、様々な宗教の死生観をある程度知ってくると、それらの多くはただの観念ではないか?!って思うようになりました。
つまり、これ以上宗教から「死」を学んでも、真実にはたどり着けないのではないかと思うようになったわけです。
その後、今度は徐々に「化学」は死をどう考えているのだろう?!って興味がシフトするようになりました。
冒頭に4冊の本を紹介した写真を載せましたが、死の解釈を科学的に伝えた良書が私的にこの4冊でした。
つまり、まあこの記事は科学本の4冊を紹介する記事なのです。
しかし、この4冊にたどり着くまでには、当たり前ですが、もっともっと多くの科学本を読んでます。
例えば、なぜ人間は生まれたのか?ってことの根源を考えると、地球の生まれた起源や、宇宙の生まれたビックバンの話とかも読みあさってます。
でもですね、この記事で宇宙論まで話をすると脱線があまりにも酷いので、今回は生物学的話だけをピックアップして、4冊に絞ります。
さてまずは、生命はなぜ生まれたのか?って話が書かれているのがこの本です。
地球誕生は火球状態から始まり、冷えるにつれて海が誕生し、その深海でメタンをエネルギー源とする生命が誕生した。
その後、通常なら猛毒でありながら高エネルギーの酸素をエネルギーにできる生命が誕生したことにより、生物が多種多様化していくことができた。
まあ軽くまとめるとこんな感じの本です。
ただ本書は、文章の表現力が高く、読んでいくうちに化学ミステリーのように、読む手が止まらなくなるような良書ですので、この系統の話に興味のある方はぜひ。
次に、これは元々私個人的な疑問からスタートして探し始めてたどり着いた本です。で、まずはその疑問とは、
「なぜ異性に対して強烈に惹かれるのか?」
って疑問です。これは女性よりも男性のほうがわかりやすいでしょう。
いわゆる風俗とかAVだけでなく、スナックやガールズバーとか、通常の飲食店でも看板娘とか、旅館の若女将とか、メイド喫茶とか、もっというとグラビアアイドルだけでなく、AKB48のようなアイドルグループや女子アナとかも含めて、男性って女性に対して莫大な金銭的価値観を費やすことがあるんです。
それほどに異性は魔力的に魅力的なんです。
つまり人間として「性」にこれほど執着心を見せるのはなぜなんだろう?と考えた時期があったんです。
それに対して、シンプルに答えを出してくれたのがこの本でした。
いわゆる人間も生物だから、次の世代の子孫を残すための生物としてプログラミングがされているということ。
つまり、生物としての本能が異性を求めあう行為・行動であるということ。
身も蓋もなく、シンプルですねえ・・・青春のプラトニックな恋心も、生物学的には「子孫を残すための本能」ってことです。
まあ、人間は知性が深すぎる生物なので、純愛すら生殖行動の一環ってのは、理解したくもない人々も多いと思いますけど、これはこれ以上なく正しい理論です。
ただですね、単純に次の子孫を残していくって条件の場合、アメーバーのような単細胞生物の自己分裂が、数的に優位なんですよ。発情期とか、異性との出会いとか、他の動物から襲われる可能性が高い交尾とか、そういうの全くなしで、1個から1個が生まれるわけですから。
しかし進化は「性」を選んだ。
魚介類や昆虫は一度に大量の卵を産むけど、動物は特に人間はほとんど1回の出産で1人の人間しか生まない。
人間で考えてみると、男女ペア2人で生涯1人の子供しか作らないケースが100%と仮定すると、人口は半減し続けます。
男女ペア2人が2人の子供を作ったところで、人口的にはトントンの話です。
そうなんです、なぜ人間という生物に「性」が必要だったのか?
この本の真に面白いところは、性の必要性を化学的に解き明かしてくれる化学ミステリー本のところです。
まあ英訳本のため、日本語的に正しくても、読んでいて楽しめる日本語ではないです。そういう日本語が長々と続く本なので、読書に慣れていない方には厳しい本になると思われます。
しかし、これほどまでに「性」に特化した本を私は知らないので、性を科学的に知りたい方には、お勧めの本です。
次に、数年前にこの本に出合って「死」に関しての科学の限界を知ることになりました。
「化学はHowには答えられるが、Whyには答えられない」
具体的に死生観で言うなら科学は、どのように生物が死を迎えるかを説明することはできるが、なぜ生物が死を選ぶようになったのかを説明することができないというわけです。
もっとわかりやすく言うと、現代化学は極限まで死に関する生物的プログラミングを明らかにはしているけど、なぜそんなプログラミングを有しているかの説明ができないということです。
もっというと、憶測的な意見は化学者の数だけあっても、それを証明できる根拠がないわけです。
この本は、数人の化学者のインタビューをまとめた本で、その冒頭を飾っているのが、私が大好きな化学者の福岡伸一さんで、インタビューテーマが、「なぜ人は死ぬのだろうか」です。
最先端化学者の死生観を、このインタビューから垣間見ることができたのは、私にとってとても大きな収穫となりました。
さて最後にこの本の紹介です。長くなります、それほどに面白い本です。
この本は4日間、連続で10名ほどの高校生との特別講義の内容をまとめた本。
「生命とは何か?」ってことを、4日連続で高校生と考え続けたドキュメント本です。
内容的にはそういう本なのですが、4日目の最終講義では、生命とは何か?という点に関して、かなり私論を交えた話をしているのですが、それがものすごく理論的にはこれ以上なく整然としているので、結局はそれを読んでいる私も、力づくで納得させられた感が否めません。
熱力学では3つの法則がある
1つ目、「エネルギー保存の法則」
2つ目、「エントロピー増大の法則」
3つ目、「エントロピーは絶対零度に対して0の法則」
1つ目は化学に疎い人でも「高いところにあるボールを落とした場合、高いところに存在するってだけでエネルギーが存在することがわかるし、それを落とした衝撃もエネルギーだとわかります。エネルギー保存の法則とは、高さのエネルギーとか、落としたときの空気抵抗エネルギーとか、最後の衝撃エネルギーを、精密に計算した時に、全てがイコールであるということ」と言えばわかってもらえるでしょうか。
問題は「エントロピー」って単語の理解ですね。
ネットで意味を検索すると「ゴミ」って感じで表現したほうがわかりやすいって記載されてますが、やっぱりそれでもわかりにくいと思います。ゴミだらけの雑多な状態が一番エントロピーが高い状態です。
一般的に○○が高いっていうと、整然・慄然とした状態って考える方が多いと思われますけど、実はエントロピーの場合は逆のイメージで、高ければゴミだらけで、低いのはきちんと整えられているってイメージです。
そうですね・・・私がエントロピーを例えるなら、海辺で作った渾身の砂の城ですね。
作った瞬間は、芸術作品ともいえるくらい立派なものです!!
しかし、砂浜で作った以上ケースに囲われることはなく、日が経てば乾燥で崩れ、風で崩れ、最後には時化た時に波で大本から崩され、最後には元々あったような平らな砂浜に戻ります。
はい!エントロピーの話に戻りますと、砂の城が完成された瞬間がエントロピーが1番低くなった状態って考えてもらえばよいです。
エントロピーとは「混沌」とか「雑然」って意味ですので、「整然」と砂の城がそびえたつ状態はエントロピーの減少なのです。
で、そこから平らな状態になるってのは、エントロピーの増加なのです。
さて、熱力学2つ目の「エントロピー増大の法則」ってのは、
「自然現象においてエントロピーは増大に向かう」
ってのが、宇宙における決められたルールです。
で、宇宙の始まりビックバンってのは、無限に近いエネルギーの誕生です。
その後、宇宙空間が広がり続けることで、エネルギーの密度的なものが薄まるということは、エントロピーが増大するってことです。
その流れの中で恒星の中に惑星が出き、生命が誕生できる環境を持つ惑星が誕生し、実際に地球では生命が誕生し、他の生物とは明らかに異なるまでの知能を持った人間が誕生しました。
しかし、これってエントロピー的には減少を意味するとは思いませんか?
でも、この本の筆者が、最後に高校生たちに持ちかけた話題が、
「人間たちはエントロピー増大のために役に立つ存在ではないか?」って話でした。
感情論的にいろいろ思うところはありますが、単純なエントロピー増大の話だけで考えると・・・石油や天然ガス等の資源を次から次へと使い続ける存在である人間が、地球上に存在しているほうが、確かにエントロピーを増大する手助けをしている存在です。
「エントロピーを増大するために人間は生まれた」
これは暴論のように見えて、なかなか真実をついているように見えるのが、この本の最大の特徴です!!
この本は直接的には「なぜ人は死ぬのか?」には答えていませんが、「宇宙的な死への貢献行動が人間の存在理由」とこの本を定義づけるなら、宇宙の熱的死は、全ての生命にとっても死なので、「人は死ぬために生きている」って答えになります。
ここまでくると、「鶏が先か?卵が先か?」みたいな命題になってしまっていて、「生きているから死ぬのか?死が決まっているから生きるのか?」って話に近くなってしまいますね。
さてさて、なぜ人は死ぬのか?って視点で読んだときに、面白い本を4冊紹介しました。
ただ、科学系の本を読みあさる最中知ったのですが、ビックバンとか、地球に生命が誕生したとか、人間の進化の過程とか、偶然という言葉だけではなかなか納得できない事例が多いらしくて、最先端の科学者が「神」の存在を強く信じるようになって、宗教に傾倒していく例も多いそうです。
私は死生観を知りたくて、若い時には宗教学を、その後は科学を学びました。
それが、まさかこんな形で融合するとは・・・夢にも思いませんでした。
すいません、強烈に長い記事になりました。それほど難しいテーマでした。
さて、死生観は面白いです。もしかしたら動物の中で人間にだけ許された、妄想遊びなのかもしれません。
それなら人間だけが楽しめる死生観妄想遊びを、今後も私は続けたいと思います。
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